会社周辺
江戸幕府以来の伝統と最新文化の混在、それが日本橋です!
五街道の起点として江戸と全国を結ぶ要衝として発展
幕府を開いた徳川家康は、日本橋の街づくりに着手。城下町としての日本橋はまず江戸と全国を結ぶ交通輸送路の確保を優先。
1603年、江戸開府と同時に日本橋が架けられ、ここが東海道、中山道など五街道の起点として定められ、以降、日本橋は交通の要衝としての役割を果たすこととなります。交通標識でよく見かける「東京まで~km」の「東京」は今でも日本橋を基点としています。
日本橋は築地に移転するまでは江戸・東京の一大魚市場
隅田川へと続く日本橋川は水路の整備が進められ、縦横に走る水路を通じてさまざまな物資が運ばれました。荷揚げ場所にはいろいろな河岸が立つようになり、代表的なものが「日本橋魚河岸」です。
1923年の関東大震災で魚河岸は築地に移転しましたが、それまで日本橋北詰の東側一帯は江戸、そして東京の一大魚市場として栄え続けました。
江戸幕府以来、何度も架け替えられたた日本橋は現在、20代目
豊臣秀吉より関八州の支配を任された徳川家康。1603年、江戸の街づくりで真っ先に行ったのが日本橋川と架橋の整備でした。以来、幾度と無く架け替えられ、現在の日本橋が建造されたのは1911年、初代から数えて20代目といわれています。そして1999年には重要文化財に指定されています。
ところで、日本橋の名前の由来は、当初、単に木が二本が渡されただけということで「二本橋」だったものが、改修とともに「日本橋」に変わっていったという説があります。
今日の百貨店のルーツとなった日本橋の呉服商
江戸の町人は日本橋周辺に多く集中。とくに現在の中央通りではもっともにぎわっていた地区でした。当時隆盛を極めた「越後屋」や「白木屋」などの呉服問屋は、明治以降、百貨店へと発展し今日の礎を気づきました。
「金座」に始まった日本橋の金融の歴史
日本橋には、江戸時代、金の製錬や金貨の鋳造、発行を行う「金座」が置かれていました。明治に入り、造幣局が設置されると金座は廃止されましたが、,跡地,に日本銀行が設置。以来、日本の金融の中心としての歴史が始まります。
その後、全国に多くの国立銀行が設立されましたが、最初の第一国立銀行は、1873年に日本橋に設立された旧富士銀行、現、みずほ銀行です
今も変わらぬ老舗の味や技
伝統の味や技を守る老舗はまだまだ日本橋に多く存在。「江戸前」で知られる寿司、江戸以来の伝統的なそばやうなぎ、伝統の味を守りつつ時代とともに進化してきた和菓子や明治以来真っ先に登場した西洋料理。この他、呉服店、和装小物、日用雑貨など、100年以上にわたる老舗が日本橋には数多く残っております。
生まれ変わった三井本館
越後屋を起源とした三井財閥は日本橋を中心にその礎を築きましたが、その本館が高級ホテル・マンダリンオリエンタルを上層部に構える高層ビルへと建て替えられました。日本橋が伝統・文化の街からオフィス街の顔を持つようになった大きな転機です。以来、伝統あるビルが次々と取り壊され、これらが建て替えられた暁には、日本橋は伝統を維持しながらも最新環境を揃えたオフィス街としても生まれ変わります。